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  • 2008/09/08(月) 19:10:12

言語化の落とし穴

  • 2006/10/24(火) 02:40:09

わたしは自分の過去の日記を読んでもぜんぜん恥ずかしくない。
そもそも恥ずかしい内容は書かないからだろう。
恥ずかしいことや、甘くて浅い考えは頭の中にいっぱい詰まっているけれど、書こうとするとはずかしい部分や意味不明な部分はばっさりカットされるし、書いてるうちにそれなりに考えがまとまってくる。

考えていることの何パーセントくらいを表現できているのだろう。
前者を思うと、10数パーセントくらいしか表現できていないように感じるけれど、後者なら、まだ考えていなかったことが浮かんでくるわけだから120とも150パーセントともいえる。

わたしが不特定多数の読者を想定した文章をかくようになってまだ2ヶ月ほどだが、
そんな文章からは、書いたのは自分ではないような印象を受ける。
もちろんこれもそうだ。つい数時間前に書いた下の文章でさえ、自分のものとは思えない。なぜだろう。


わたしは頭の中で考えているとき、言語で考えていないように思う。なにかもやもやとした映像や図形や光とかが頭の中にあふれている。
それを言語としてアウトプットするとき、たくさんの何かが削られ、死んでいる。
そのアウトプットがわたしはすごく苦手だ。
話す時、その作業に許される時間がもっとも少ないので、意味のわからない思考の一部がくっついたまま、そして順序が乱れたまま言語化される。
わたしと会話をしてもおそらくたいていの人は意思の疎通ができないだろう。おそろしいことだが。
いつもうまく話せていないもどかしさはあったものの、会話はなんとか成り立っていると思っていた。相手がほとんど理解していないことに気付いたのは最近のことだ。

文章を書くときは、ある程度の時間的余裕が与えられる。
したがってわたしは正体不明のイメージを削り取り、時間軸を揃えて、ある程度他人にもわかるように言語化することができる。
けれどその過程で削りとられたものこそがわたしであり、わたしらしさなのだ。
まさにそういう理由で、わたしはわたしの文章をわたしが書いたもののように思えないのだとおもう。